復興支援事業 三陸産生わかめ
復興支援事業
三陸産生わかめ
2011月年3月11日、東日本大震災が起きました。
私の親友が岩手県大船渡市で海藻メーカー(株)松栄を経営していましたが震災の被害に合い、
支社工場もろとも全て流され、失い、残ったのは建物の基礎だけでした。
奇跡的に従業員は助かり、
そして津波で流された保冷庫が見つかり、
収穫したわかめが少量ですが保冷庫の中にありました。
私の親友が岩手県大船渡市で海藻メーカー(株)松栄を経営していましたが震災の被害に合い、
支社工場もろとも全て流され、失い、残ったのは建物の基礎だけでした。
奇跡的に従業員は助かり、
そして津波で流された保冷庫が見つかり、
収穫したわかめが少量ですが保冷庫の中にありました。
2011月年3月11日、東日本大震災が起きました。
私の親友が岩手県大船渡市で海藻メーカー(株)松栄を経営していましたが震災の被害に合い、支社工場もろとも全て流され、失い、残ったのは建物の基礎だけでした。
奇跡的に従業員は助かり、そして津波で流された保冷庫が見つかり、収穫したわかめが少量ですが保冷庫の中にありました。
私の親友が岩手県大船渡市で海藻メーカー(株)松栄を経営していましたが震災の被害に合い、支社工場もろとも全て流され、失い、残ったのは建物の基礎だけでした。
奇跡的に従業員は助かり、そして津波で流された保冷庫が見つかり、収穫したわかめが少量ですが保冷庫の中にありました。
東京に本社を構えていたため、
なんとかそのわかめを販売し事業継続しようと
私の親友は先の見えない未来に必死に立ち向かっていました。
もともと取引もあり、海産物を販売させていただいていたので、
私も何か出来ることはないか、協力できることはないのか?と考え、
そこから弊社のプライベートブランドを起ち上げ弊社は利益はいらないからと、
卸先や販売店に夢中で売り込み営業にまわりました。
流通を起し、少しでも親友の力になりたかった。
事業継続という厳しい選択をし、
新設した大船渡の工場で働く従業員の為に雇用維持を必死で守っていた親友の為にも、
微力でも力になりたかった。
東京に本社を構えていたため、なんとかそのわかめを販売し事業継続しようと私の親友は先の見えない未来に必死に立ち向かっていました。
もともと取引もあり、海産物を販売させていただいていたので、私も何か出来ることはないか、協力できることはないのか?と考え、そこから弊社のプライベートブランドを起ち上げ弊社は利益はいらないからと、卸先や販売店に夢中で売り込み営業にまわりました。
流通を起し、少しでも親友の力になりたかった。
事業継続という厳しい選択をし、新設した大船渡の工場で働く従業員の為に雇用維持を必死で守っていた親友の為にも、微力でも力になりたかった。
その後、沢山の善きご縁いただき、
ショッピングモールや百貨店など、催事事業での販売を皮切りに、
大手スーパー様、北関東全店での販売となるなど、
私の想いを繋いで下さる方々の本当に温かいご支援ご協力により
復興支援、三陸産生わかめの販売が実現となりました。
私共の復興支援事業は小さな一歩なのかもしれません。
しかしきっと誰かの為になっていると信じ、
三陸産生わかめを今でも流通させていただいており、
今後も継続して参ります。
私共の想いにご支援ご協力くださった沢山の方々に、
この場を借りて改めて感謝申し上げます。
その後、沢山の善きご縁いただき、ショッピングモールや百貨店など、催事事業での販売を皮切りに、大手スーパー様、北関東全店での販売となるなど、私の想いを繋いで下さる方々の本当に温かいご支援ご協力により復興支援、三陸産生わかめの販売が実現となりました。
私共の復興支援事業は小さな一歩なのかもしれません。
しかしきっと誰かの為になっていると信じ、三陸産生わかめを今でも流通させていただいており、今後も継続して参ります。
私共の想いにご支援ご協力くださった沢山の方々に、この場を借りて改めて感謝申し上げます。
2021.03.11